皆さん、こんにちは!そして、こんばんは!コピーライターのMです。今日は私が広告業界に入るきっかけとなったコピーライターブームについて書きます。

私にとって80年代に巻き起こったコピーライターブームは、一生の仕事を決める出来事であり、思い出の塊です。

糸井重里氏、仲畑貴志氏、魚住勉氏、眞木準氏が“コピーライター四天王”といわれ、数々の名作コピーを生み出していました。とはいうものの、私が彼らの凄さとコピーライターがブームだったことを知るのは、宣伝会議の養成講座に通いはじめてからです。

とにかくブームの最中は、コピーライターの名刺を持っているだけでモテました。たぶん、自称コピーライターも沢山いたと思いますよ。まっ、デザイナー、カメラマン、ハウスマヌカン(?)…など、カタカナ職業がモテはやされた時代です。

広告業界のことを全く知らないド素人!

就職活動を控えた大学4年生になる春、就職読本を読んでいてコピーライターという職種があることを知り、「広告の文章を考える仕事か…これこそ天職だ!」という根拠のない自信から、私は宣伝会議コピーライター養成講座に通うことにしました。

当時NHK教育テレビの『YOU』で司会を務めていた糸井重里氏がコピーライターであることは何となく知っていましたが、それ以外の知識はなく、養成講座の初日に、周りの受講生が『広告批評』を片手に、「仲畑さんの××のコピーが良いよね!」「真木準の△△のコピーも彼だから書けるんだよ…」などの会話を聞き、面食らったのを覚えています。あの頃、『ナカハタ』といえば、野球の『中畑清』しか思い浮かばない私でした。

コピー書籍
※当時コピーライターブームでこのような本が書店に並んでいました。

その後、休まず養成講座に通って、他の受講生のように『広告批評』などを読み、““言葉を武器に戦うコピーライター”への憧れは増すばかりです。どうにかこうにか養成講座も『一般コース』から『専門コース』へと進み、10月となり就職活動の解禁日を迎えました。

大学のゼミ仲間が、次々と企業から内定をもらう中、広告業界、しかもコピーライター1本に絞っていた私は予想以上に苦戦!広告代理店を手当たり次第に受けましたが、D通もH堂もD広も撃沈。またI企とA通は指定校制で受けることさえできず、Y広では面接官に「またコピーライター志望か…ブームだからね。まっ、頑張ってね!」と突き放される始末です。幾つかの広告制作会社にも電話しましたが、コネがない新卒は門前払いで会ってもくれません。

最後の最後に老舗の広告制作会社に滑り込む。

もはや就職浪人しかないかと、あきらめかけた時、宣伝会議に「ナショナル宣伝研究所が新卒コピーライターを募集する」との連絡があり、最後の望みをかけて受けたところ、狭き門を運よく合格!何とかコピーライターとして広告業界に滑り込むことができました。

内定の電話をもらったのが確か11月の後半で、正式な合格通知が届いたのが12月の中旬頃だと記憶しています。本当に合格したのか不安で、頻繁にアパートの郵便受けを見に行っていましたね。

『ナショナル宣伝研究所』(通称:ナショ研)は松下電器の初代宣伝部長だった竹岡リョウ一氏が独立する際、松下幸之助氏から、宣伝部と切磋琢磨して“良い広告を制作する会社をつくれ”との命を受け、1956年に創業した日本で一番古い広告制作会社です。OBには、横尾忠則氏、山藤章二氏、仲畑貴志氏などがいらっしゃいますが、在籍したことを伏せている方も…w

入社後、コピーライターブームに、少し遅れてバブル景気も到来。憧れの先輩コピーライターたちが、さらなる名作コピーを繰り出し、広告界全体が華やかでしたね。私もいつかは憧れの先輩たちのようになりたいと思っていましたが、ナショ研が真面目な会社だったので、ひたすら真面目なコピーを書いていました。

しかし、振り返ってみると、憧れていた先輩たちのようにキラキラした仕事はありませんでしたが、この時期に広告とコピーの基本を徹底的に叩き込まれて良かったと感謝しています。

今日の話はここまです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。これからも私が経験してきた広告業界にまつわる、『あれやこれや昔の話』を折を見てアップしていきますので、宜しくお願いいたします。

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