とあるコピーライターの怪顧録。

80年代のコピーライターブームから、バブル景気、リーマンショック、3.11、そしてコロナ禍まで、見たこと、聞いたこと、感じたこと。

皆さん、こんにちは!そして、こんばんは!コピーライターのMです。突然ですが、皆さんは大事な書類や原稿の校正でミスを犯したことはありませんか?私は校正が大の苦手なんです。それは新人コピーライターの時から、今も変わりません。余りにも校正ミスが多いので、その理由を真剣に考えたことがあります。

■他人の原稿は目で読み、自分の原稿は頭で読む。

そして、私が導き出した答えは、「自分で書いたコピーや文章は、頭の中で読んでまうから!」です。チコちゃんに叱られますかね?

その根拠は、校正する際、他人の書いた原稿は初見の場合が多く、内容の確認と共に誤字・脱字に注意しながら、目で追って読みます。

一方、自分が書いた原稿は、すでに内容が分かっているので、1字1字注意して校正しているつもりでも、目ではなく、つい頭の中で読んでいる気がします。何となく説得力があるでしょ。

■今日までバレなかった『校正ミス』を白状します。

さて、私が大学を卒業し、コピーライターとしてキャリアをスタートさせた今から40年ほど前、最初に勤めたナショナル宣伝研究所時代のお話しです。

前述したように、私は校正が大がつくほど苦手。運が悪いことに上司だったコピー部の部長Sさんもまた校正が得意ではなかったんです

そのような状況でしたから、2人して『校正ミス』を結構やらかしていました。営業部の部長からは穴が開いたような“ザルのような校正”をもじって「大ザル、子ザル!」とよく揶揄われたものです。

コピー部では他人の原稿を校正してミスを見つけた場合、1箇所につきビール1本という暗黙の了解があったのですが、私は随分と先輩たちにビールを献上いたしました。

当時、企画・制作していた広告は新聞がメインで、成美製販の担当営業のOさん、またYさんに幾度となくゲラ刷りの段階で校正ミスをこっそり直していただきました。たまに下版してからの修正もあったので、本当に感謝しております。

しかし、最後まで校正ミスを見つけられず、そのまま掲載してしまった原稿が幾つかるんです。もう時効ですので白状させていただきます。

まず新聞15段(1ページ)の企業広告で、欄外にある問い合わせ先の社名を『松下電器産業株式会社』とするところを『松下電器株式会社』で掲載してしまいました。ごめんなさい。

また洗濯機の広報紙用の3段(5分の1ページ)広告で、『マイコン制御』を1文字間違えて『イ』が『ン』になっているのに気づかず掲載してしまいました。他にも見つけていない細かな校正ミスはあったと思います。

でも、一番印象に残っている校正ミスは、朝日新聞に入稿した企業広告で、校閲部から『広告のビジュアルに使われている世界地図ですが、〇〇〇の国名が旧国名になっていますので、差し替えてください。」と電話があったことです。

■校正ミスより怖い、致命的な教養ミス!

具体的な国名は忘れましたが、地図に小さく表示されていたものです。私が書いた広告原稿ではないですが、頼まれて校正はしました。

教養ミス

おそらく制作部で2~3名、営業部で1名、さらに松下の宣伝事業部でも担当者が目を皿にして校正をしてから入稿した原稿でした。残念ながら、私の目の皿は割れていたようです。

強面のグループCDから「これは校正ミスではなく、教養ミスだな。」とボソッと言われ、誰もが苦笑いしかできませんでした。

今日もこうしてブログを書いていますが、見直すたびに、書き間違いならぬ、打ち間違いを見つけます。でも、ブログは後から幾らでも修正できますからね。

マズイのはメールを変換ミスした漢字のまま送ってしまい、後から気づくことです。修正して再送するのも妙だし、困ったものです。変換ミスした漢字によっては『教養ミス』と思われますから、注意しないといけませんね。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。これからも私が経験してきた広告業界にまつわる話をアップしていきますので、宜しくお願いいたします。

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皆さん、こんにちは!そして、こんばんは!コピーライターのMです。私が新人の頃,「コピーは足で書け!」とよく先輩に言われていました。もちろん、鉛筆やペンを足の指に挟んでコピーを書くことではありません。

私がコピーライターになった80年代には、当然インターネットも、PCもなく、知りたい情報をGoogleなどで検索することはできず、デザインやコピーに必要な資料は、もっぱら大きい本屋や図書館に足を運んで探していました。
足で書く

さらに、昔は広告のラフやカンプをつくるのにも、今のように画像をダウンロードして加工するということができないので、イメージに近い写真が載っている雑誌を買い込んで切り張りしたり、カンプライターに参考資料として渡したりと、結構大変だったんです。あっ、レンタルポジ屋さんにも、お世話になりました。

深夜0時の六本木には、悲しい同業者がチラホラと。

実際、私は広尾の中央図書館と国会図書館、それに八重洲ブックセンターの常連でしたし、新卒で入社した制作会社が六本木にあったので、真夜中の青山ブックセンター(通称:ABC、麻布警察の近くにある朝まで営業している本屋)にもしょっちゅう行っていました。

深夜0時を過ぎてるというのに、ABCには服に切り取った写植文字を付け、指先がペーパーセメントで黒くなった、一目でデザイナーとわかる同業者をよく見かけたものです。今の人たちは写植やペーパーセメントと言われても、たぶん分からないでしょうね。


当時、私は松下電器の企業広告とOA機器(事務用コンピュータやFAX コピー機など)、エアコンを担当していたので、取材が多かったり、展示会で競合他社のカタログを片っ端から集めたりと、とにかくコピーを書くための情報はすべて歩いて集めていました。


ネット社会になって、コピーライターの仕事も随分変わったと思います。だってPC1台、いやスマホ1台あれば、資料を探し、コピーを書いて、その原稿を送り、クライアントと打合せができるのですから。

原稿用紙に手書きしたコピーを、なかなか繋がらないダイヤル式のファックスで送り、赤字が入ると修正した箇所を原稿用紙に切ったり、貼ったり…あの頃が懐かしい気もしますが、今なら面倒で嫌になるでしょうね。

不要不急でも街を歩けば、新たな気づきが生まれる?!


しかし、昨年から続くコロナ禍で思うところがあります。なるべく人との接触を避けるために、ほとんどの打ち合わせがリモートで、必要な資料はネットで検索するか、メールで入手。確かに便利ですが、やはり直接会って話したり、街に出ないと得られないものがあるはずです。

それは、人や街から感じる、ニュアンスだったり、体温だったり。人を動かすコピーを書き、広告をつくる者として、とても大切なことだと改めて思っています。

また新人の頃の話になりますが、私が原稿用紙と“にらめっこ”していると、先輩コピーライターから「ちょっと街を歩いてくれば。」とよく言われました。その先輩も煮詰まると資料探しに行くと私に告げ、1、2時間ほど外出し、明るい顔で資料ではなくお菓子を手に戻ってくることが多かったです。


思い返すと「ちょっと街を歩いてくれば。」は、一度頭をリセットすることと、人や街から何かを感じ、新たな気づきを生み出すために必要だったのでしょうね。

今でも私は煮詰まると「頭をガラ・ガラ・ポン!」するために、街を歩くようにしています。ただ、歩いた帰りに余計な店に立ち寄ったり、つい無駄な物まで買ったり…その習性だけは還暦を過ぎた今も昔も変わっていないようですが。

このコロナ禍で不要不急の「ちょっと街を歩いてくれば。」も、ちょっと気が引けますが、相変わらず続けるようにしています。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。これからも私が経験してきた広告業界にまつわる、『あれやこれや昔の話』もアップしていきますので、宜しくお願いいたします。

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皆さん、こんにちは!そして、こんばんは!コピーライターのMです。還暦を過ぎたせいか、この頃、つい昔のことを懐かしんで思い出してしまいます。辛いことも随分あったはずなのに、思い出すのは楽しかったことの方が多くて、何とも不思議です。

今日は、私を鍛え、育ててくれた、4人の師匠についてお話します。ご興味のある方は、どうぞお付き合いください。


私をコピーライターに導いてくれた師匠。


まず最初の師匠は、宣伝会議コピーライター養成講座でお世話になった電通の岡田耕さんです。まだ大学生でコピーライターの卵にもなっていない、私の“微々たる可能性”を最初に褒めてくれました。この師匠と出会っていなければ、私はコピーライターになっていないと思います。


私は養成講座に通うまで、広告について全くのド素人でした。しかし、コピーライターになりたいという気持ちは人一倍強く、一回も休まず養成講座の一般コースを受講していたのですが、毎回講師から出される課題の評価はどれもイマイチでした。


一般コースの講義も残り少なくなり、このままコピーライターを目指して本当に良いものかと悩み始めていた時、岡田さんが出された課題で「このコピーの考え方、切り口は素晴らしい。きっと良いコピーライターになれるでしょうね。」と受講生の前で話され、はじめて良い評価を受けたのです。


その気になった私は、専門コースへ進むことを決意!迷わず岡田さんのクラスを選びました。あっ!河田卓さんにも褒めらたことがあります。私、褒められると、すぐ勘違いするタイプなんです。


その勘違のおかげで、幸運にもコピーライターになった後、お会いしたのは2、3年続いた岡田クラスの同期会と、私が卒業生として養成講座で一度講義をした時ぐらいですかね。そうそう思い出しました。岡田さんから2度ほど突然電話が掛かってきて、電通系列の広告制作会社に転職しないかと誘われ、何回かお会いしています。


いずれもグラフィック広告専門の制作会社だったのでお断りしましたが、中村禎さんや神谷幸之助さんのように電通本体に誘ってくださったら、二つ返事で転職したのにね。残念ですw


ご本人に直接聞いてはいませんが、確か新潟のご出身で、年齢的に昨年亡くなった私の父と同じ高校の同級生または1年先輩にあたるのではないでしょうか。私の勘違いでしたら、お許しください。

もう随分と前になりますが、岡田さんの訃報を電通報で知りました。あの時、私を褒めてくれて、本当ありがとうございました。


ちょくちょく飲んでは相談にのってくれた師匠。


次の師匠も同じく養成講座でお世話になった電通の石田勝寿さんです。岡田さんがお忙しい方だったので、よくピンチヒッターで専門コースの講師をなさっていました。石田さんとはコピーライターになってからも、ちょくちょくお会いして飲んでは、コピーのアドバイスを受けたり、転職の相談にのってもらっていました。

私が最初に勤めたナショナル宣伝研究所(通称:ナショ研)を辞めて東急インターナショナルに移る時も、またレオ・バーネット、JWTに転職する時もご相談しています。残念ながら、ひょんなことから行き違いが生じ、もう20年以上お会いしておりません。早期退職なさり、東京経済大学の講師などをされていたようですが、お元気でいらっしゃることを願っております。


コピーライターの基本を叩き込んでくれた2人の師匠。

あと2人の師匠は、ナショ研で先輩コピーライターだった福永晴雄さんと、コピー部部長の島田孝一さんです。最後にお会いしたのは5年前でしょうか?当時グループCDだった京藤洋一さんのお通夜の席です。


福永さんからは、よく「明日の朝までにコピーを100本は書いてこいよ!」といわれました。いざ必死で100本書いたコピーを見せると「ダメだな!」の連発。その後で「これと、これは、面白いと思うよ。でも上(社長)を説得できないかもね。」「この切り口で、もう少し考えてみたら?」などとアドバイスをしてくれました。
ゴミコピー
また、新人の時は、福永さんの広告原稿をリライトすることも多く、当時“ナショ研調”といわれていた文体がカラダに染みつき、未だに書いていると、ときどき顔を出すんです。昔はそれが嫌で、色々な文体で書くようにしていましたが、今では一つの武器になっている気がします。


仕事が終わると、毎晩のように「ちょっとメシ食って帰るよ!」と飲みに誘われ、同じ説教と愚痴を聞かされるのです。そして、いつも「明日の朝までにコピー100本だからな!」と言い残して帰っていきます。


今なら完全に『パワハラ』ですよね。でも、その当時は「これも修行だ!」と、そんなに嫌でもなかったです。ただ、たまに高い飲み屋に誘われて「ここは割り勘な!」と言われたと時は、さすがに腹が立ちましたがねw


島田さんは温厚な方でしたが、妙に頑固なところもありました。一度コピーの「てにをは」でクライアントと揉め、電話口で激高していたことを思い出します。松下電器と旭硝子の企業広告/技術広告をメインに担当されており、難しい製品や技術を説明するボディコピーがとても上手かったです。

私も松下電器の企業広告を一部担当していたので、文章の組み立て方や切り方、言い回しなどを厳しくチェックされました。島田さんと一緒に取材に行くことが多く、取材先に対する礼儀作法から、聞くべきポイント、取材後の情報整理の仕方など、色々と学ばせていただきました。


そんなキッチリとした島田さんですが、私と同じように『校正』が余り得意ではなく、2人して“ザルのように穴の開いた校正ミス”を繰り返すので、営業部長から『大ザル、子ザル』と呼ばれ、良くからかわれていました。ちなみに、私は今も校正が苦手ですw


師匠!不肖の弟子ですみません。


こんな素晴らしい師匠に恵まれた私ですが、弟子として唯一心残りがあります。それはTCCの会員になれなかったことです。4人の師匠はTCC会員で、岡田さんは審査員でもありました。残念ながら、私はTCCに関しては、準新人賞が2回で終わっています。


30歳ごろまでは毎年応募していたのですが、クリエイティブディレクターになったのを機に応募するのを止めました。その代わりというわけではないですが、他の広告賞をそれなりに貰っている方だと思うので、この不肖の弟子をお許しください。


こんな不肖の弟子ですが、私にも4人の弟子がいました。折を見てその弟子についても書きたいと思います。もしかしたら、私の弟子と思っていない者もいるかも知れませんがね。


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。これからも私が経験してきた広告業界にまつわる、『あれやこれや昔の話』もアップしていきますので、宜しくお願いいたします。

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